seikatsu

楽しい生活をやっています

平気で生きていきたい

バズりたい、ああバズりたい、バズりたい…。
調子が悪いと、バズりたいという思いにとらわれる。

自分の作ったものがSNSでたくさん拡散されて、いいねも2万とか3万くらいついて、お仕事依頼のDMがバンバンに来ることを妄想しては、今ぜんぜんそんな状態じゃない自分に落ち込むし、自責の念にかられる。
よく寝て美味しいものを食べて、リラックスして一晩寝れば回復するようになったから、昔よりは楽になった。でも、自分でこれはいいぞ…と思えるものが出来たときほどバズの欲求につかまって、作ることや毎日の生活を楽しめなくなるのはかなりしんどい。
そんな暗くて自意識過剰なこと考えてるからバズんねえんだよ!と、顔を赤くして怒り出す自分も心の中にいる。やだなー。

よく考えてみると、私の言ってることとやってることはあまりに違いすぎる。バズりたいと言いながらTwitterには鍵を掛け、書けない書けないと悩みながらインスタのキャプションに四苦八苦し、広告を出すわけでもなく、多くの人に好まれるように意識しながら作っているわけでもない。
言動は一旦無視して行動を取り出すと、むしろバズりたくない!と言っているように見える。


本当にバズりたい?有名になりたい?と自分にやさしく問い掛けてみる。本当のことを言っても大丈夫、攻撃されないよ。そう根気強く伝えながら、本心を知ろうとしてみる。
「バズとかどうでもいい。好きでいてくれる人に見てもらえたらそれでいいよ」という答えだった。
バズりたいわけではないのだ。

ただ、バズらなくてはいけないとは思っていた。なんでって、有名にならないと創作活動で食っていけないじゃん。もうフルタイムで働くのはたぶん無理だし。(働きたくないと言うと叩かれそうでこわいから"無理"と不可能性を強調しているが、本当はめちゃくちゃいやだという気持ちの方が強い。働け"ない"んです。できないんです。だから強制しないでください。強制されたくない。)
えっ、それってつまり、働かなくては食っていけない、それが問題の本質なんじゃないの?


働かなくても食っていけたらそれでいい。有名にならなくても別にいい。はたらかないで、たらふく食べたい。それだけだ。
いつだって面白い仕事はしたいし、自分の仕事で依頼をくれた人が喜んでくれるのは本当にうれしい。
でも、面白い仕事と「働く」は決定的に違う。少なくとも、私の中では。そのことをうまく説明できるようになりたいけど、自分の力量ではまだ難しい。

労働は日本国民の義務だ!という人は、たぶんわたしの文章をじっくり読まないだろう。読まなくていいよ。
甘ったれんなとか、そんなんじゃ社会でやっていけないぞと言われても、それでも私はいやだ。そうじゃない社会で暮らしたくて、そうじゃない社会を探しているので。


書くだけならタダだから、ここでは色々な気持ちを体裁よく整えず、正直に書くことにしている。(無意識に、私は和を乱す人じゃないですよ〜空気読んでますよ〜正しいですよ〜〜という文章に、必死に整えようとしている自分に毎回驚いています。ああ過剰適応)

働きたくない。毎日楽しく暮らしたい。ハラスメントは嫌だ。好きじゃない人と毎日話すのもいやだ。断る自由がないのもいやだ。何事も前向きに取り組まなきゃいけない空気もいやだ。

私はマイナス思考で弱くて、物事の嫌な面ばかりに注目しがちで、思い込みが激しくて、好奇心が強いけど怖がりで、毎日うまく出来ないことだらけだ。
弱くて出来ないことだらけで、それでいいよ。私はそういう人でも平気で楽しく生きていける世界で暮らしたい。そのために出来ることをしたい。
私が平気で生きていくことで、弱くて自意識過剰な人が平気で楽しく生きていける場所が、とりあえずひとつ増えるわけだし、そうしたい。
弱くて出来ないことだらけなまま、作り続けたい。


(このことを考え、書くにあたって、栗原康さんの著作がとても助けになりました。進む道に迷い続ける私にとって大切な、登山道の目印や、ベンチのような本です。)