seikatsu

楽しい生活をやっています

いやな言葉

去年はとても楽しい年だった。

新しいチャレンジとか、今まで出来なかったことが出来るようになったりとか、そういった嬉しいことがたくさんあった。
今年も変わらず続けられたらいいと思うし、楽しく続けるための努力というか、やれることはやっている。そう思えている。

でも、出来るようになった、嬉しい!という喜びの後ろから、スッと水を差すいやな言葉が、頭の中に響くことがある。
時々、いや、とても頻繁に響く。
例えば、今まで聴き取れなかった英語が理解できるようになったとき。
「字幕があるからわかったんでしょ?」
新しく絵を描き上げたとき。
「いつもそういう色使いだけど、ほんとワンパターンだよね」
イタリア語を楽しく学んでいるとき。
「そんなこと勉強してどうするの?他にやらなきゃいけないことあるでしょ」
ブログを書き続けられて、嬉しく思っているとき。
「自分語りしすぎ。調子に乗るなよ」
何をしていても、どこかから粗を探してきて、決して減点をやめない。ひどい話だ。

うんざりする。
いやな言葉にも、好きな人たちの応援よりも、その言葉に支配されてしまう自分にも。


昨年からずっと、いやな言葉の正体を明らかにしていく作業を続けてきた。
たくさん調べて、泣きながら本を読んで、通院時には先生と話し合って、文章で気持ちを言葉に表して。たくさんのことを学んできた。
自分に元々、生まれつき搭載されていた言葉ではないこと。
子供の頃から何度も繰り返し触れるうち、その言葉に従うよう学んでしまったこと。
そうしなければ生きていけないと思っていたけど、いまはもう怖がらなくても大丈夫だということ。
全て納得できた。

今もまだ、「お前はダメだ、なぜならお前だからだ」という、因数分解し切ってししまえば何も言っていないに等しい言葉に、過去の記憶に、思わず足を止めてしまう日がやってくる。
もしくは、走りたくないのに無理やり駆けずり回ってしまう。
どちらにしても疲れて、身動きが取れなくなる。
必要以上に恐れて、攻撃的になってしまうこともある。

昔よりずっと良くなったけれども、その「良くなった」にも、いやな言葉は忍び寄ってくる。


いやな言葉たちはとにかく、私に楽しんでほしくない、喜んでほしくない、ということだけはよく分かった。
そのために、何か好きなこと、自分の興味や満足に向かうときや、出来るようになって嬉しい!と喜んでいるときに「お前はダメだ、なぜならお前だからだ」という評価を付け続けてきたのだろう。
仕事とか、誰かの役に立つとか、自分以外にもプラスになる場面では彼・彼女らの評価を気にせずに行動できるから、そう結論付けることにした。辻褄が合う。


「トラウマの現実に向き合う」(水島 広子 著/創元社)を読んだ。
帯にも取り上げられていた本文の一節を引用する。

"トラウマとジャッジメントとは、切っても切り離せない関係にある。ジャッジメントはトラウマを産み、トラウマがあると自己防衛のためにジャッジメントを下すようになる。社会にこれだけジャッジメントが横行しているということは、それだけ傷付いている人が多いということだと思う"

新装版 トラウマの現実に向き合う: ジャッジメントを手放すということ



かつて、いやな言葉、評価の言葉、ジャッジメントの言葉を投げかけた彼・彼女らは、傷付いていたんだろうか。

私も今まで、十分に傷付いた。
それでも、治せる傷は治し、治せない部分はそのままに、楽しく喜びに溢れた時間を生きていたい。
そしてとりあえず、今日はもう寝る。