seikatsu

楽しい生活をやっています

自己責任で死んでしまう前に

私は何事もふつうにちゃんとやろうとすると何も出来なくなる人間なので、子供の頃から今までのことを思い返すと、あー大変だったなあ…という感覚がまず初めにやってきます。頑張ってふつうになろう、ちゃんとしようとすればするほど体が固まって、何も出来ずに叱責を受けてきました。

楽しい出来事もたくさんあったはずなのに、印象に残っているのは母親や学校の教師や会社の上司、その他色々な「えらい人」が怖いとか、上手くできない自分が情けないとか、そういう記憶ばかりです。

楽しい記憶を思い出しにくいのも、もしかしたら特性なのかもしれません。あとは、とにかく「えらい人」が苦手なんだと思います。

 

それから、長年「自分のせいにする」というか、自分にダメな部分があるからうまくいかないんだ、話をきいてもらえないのは自分がいつまでたっても結果を出せなくて、ダメなやつだからだ、と思って過ごしてきました。

私も結果を出したら、成功したら、「えらい人」に話を聞いてもらえるかもしれない、でもいつまで経っても軽んじられて、成功する道に辿り着けなくて、それは自分がダメだからだ、もう毎日が嫌だ。

そう考えて自暴自棄になることを繰り返すばかりでした。

 

でも、一方で「私は悪くない、社会は全て間違っている、今までしてきたことを謝れ、許さないからな」という気持ちも強く強く心のなかにあって、「私はダメだ」と「社会が間違っている」が波のように寄せては返し、常に急勾配の坂道を登っては下るようで、どんどん疲れが溜まって動けなかった。

 

もうこれ以上は無理、でもどこにも行けない、と行き詰まっていて、大人になってから出会えた大切な、信頼できる人たちに気持ちを伝えました。できれば隠し続けていたいと思っていたけれど。

自分の気持ちを、特にマイナスの感情をそのまま伝えるのは、私にとってはものすごく勇気が要ることでした。なんたって、今まで何度も「そんなことをいちいち気にしてたらやっていけない」とか、「文句を言う前に努力して結果を出せ」とか、「もっと周りに合わせて楽にすればいいのに」ということを言われたことしかなかったから。

好きな人にそんなことを言われたら、今度こそ生きていくのが無理になってしまいます。

 

コップの水が溢れるように、たくさんの負の感情をぶつけてしまいました。

それでも、私の話を遮って否定することなく、それは大変だったな、嫌になって当然だ、あなたのせいじゃない、と言ってくれました。

その時に初めて、このまま生きてていいのかもしれない、と思いました。

 

日本で教育を受けて育った私たちは、自分の苦しみを人のせいにすることは絶対にダメだと教わって生きてきています。さらに、不景気かつ自己責任論が流行っているから、余計に自分でなんとかしろ!と、ぴしゃりと跳ね除けられてしまう。

でもそれって、「えらい人」が、出来ない人のせいにしてるとも言えるじゃない?「えらい人」の自己責任は、いったいどこに行ってしまったんでしょうか。

 

今は、お前はダメなやつだ、自己責任でなんとかするべきだ、という声が聞こえても、そうとは限らないと考えられるようになりました。本当にじわじわと、毎日進んだり戻ったりしながら、少しずつだけれども。

自分ひとりの努力で、自己責任で頑張り続けていたら、出来なかったことです。