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ほっこりしなくてもいい

昔から、「ほっこり」という言葉が嫌いだった。
ていねいな暮らし、ナチュラル、生成り色のリネンで出来たワンピース、無垢材の素朴な家具、身の丈に合った生活、ちょうどいい、置かれた場所で咲きなさい、ゆるり、素直、自然体。
全部大嫌いだったし、今も心が無防備なときにそういった言葉たちに出会うと動揺する。
良いイメージのものばかりなはずなのに、途方もなく後ろめたい気持ちになる。


ていねいな暮らしという言葉には身構えてしまうけれど、一日の行動を取り出してみると、いまの私はかなりていねいな暮らしをしていると思う。
家事や掃除、インテリアの楽しさに気付いたし、以前よりも穏やかに毎日を過ごせるようになった。
セーターを編むし、服を手洗いする時もあるし、ミシンのペダルも踏む。
毎日自炊をするし、パンやお菓子を作ることもある。
なるべく不要なものを買ったり、ゴミを出しまくることをやめる練習をしている。

それでも、ほっこりとしたていねいな暮らしという言葉に括られることには腹が立つ。
話のわかる友達には、半ば冗談めいて「ていねいな暮らしじゃなくて、ばかていねいな暮らしだから」なんて言ったりする。
そうすると、後ろめたい気持ちが紛れて少し楽になる。


あまりにも嫌だと思ってしまうので、私が「ほっこり」という言葉から何を読み取っていて、なぜ嫌なのかを考えてみた。

ほっこりの他にも挙げた嫌いな言葉たちを眺めてみると、どれも女性と子供に期待される役割をすぐに思い浮かべられる。
ほっこりしている男性をイメージするのは難しい。
男性が「おれは置かれた場所で咲くよ」と言ったら、なんとも不穏な空気が漂いそうだ。えっ、最初から諦めちゃっていいの?と口に出す人がいるかもしれない。
女性は自ら進んで「置かれた場所で咲きなさい」という本を書く。
子供も、大人の考える「素直ないい子」の道から外れようとすると、色々な手を使って素直な子供に直したがる大人と戦わなければならない。

2023年の現在は昔に比べて少し状況が変わっている気もするけれど、95年生まれの私はそういう空気の中で育った。
自分のやりたいこと、なりたい姿よりも、他人の期待に応えて、今の状況に満足しろ、という圧力があった。
自分のやりたいことに集中してプロフェッショナルを目指すよりも、幼稚なままで親しみやすいことを期待されてきた。
もっというと、「他人を優先するのが正しく、そして喜ぶべきことだ」と言い聞かされて育ってもいた。
これが勝手な思い込みだと断じられるのは我慢ならない。

もしも私の勝手な思い込みで誇大な被害妄想なんだとしたら、どうして料理は女がするものなのに、「モダンガストロノミー シェフ」で画像検索すると出てくるのは男性の写真ばかりなの?家事は女の仕事なのに、家事の舞台になる家を作る建築家は男性ばかりなの?
私だけの被害妄想なんだとしたら、テイラー・スウィフトは「The Man」を書かなかったんじゃない?

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最近、自分を許すのが上手になってきた気がする。
「他人を優先するのが正しく、そして喜ぶべきことだ」という価値観を離れる自分を許した。
幼稚さから離れて、大人になりたい気持ちを許した。
やりたいことを思い切りやって、状況を変えていくことを許した。
生成り色のリネンで出来たワンピースを絶対に選ばない自分を許した。

生まれて初めて、あの途方もない後ろめたさのトンネルを抜け始めている。