seikatsu

楽しい生活をやっています

そうするしかない

〜と思う。〜のような気持ちになる。〜的な感覚だ。〜だと考えている。
文章を書くとき、特に意識しなければ全ての文末にこれらをくっつけてしまう。
ストレートに言い切ることには不安…を感じる。「言い切ることは不安だ」と書いた方が読みやすい、はず、のような、気がする、のだけれども。

「キリンに雷が落ちてどうする」(品田遊)を読んだ。

"「かもしれない」のためにストレートな気持ちを歪曲する行為に言い知れぬ罪悪感を抱いてしまう、それは他人の判断力を低く見積もり侮ることとそれほど違わないのではないか、と思うから"というようなことが、ある章に書いてあった。


子供の頃、ストレートな気持ちで何かを言ったりやったりすると、だいたい周囲の大人は困ったり、なんでそんなこと言うの!と怒りだした。
ストレートに好きなものを選び、嫌いなものを拒否すると、母は困った顔をした。

私は魚が好きだった。
食べる方はそこまで興味がない。かれらの美しい姿が好きだ。目の大きな少女の人形や、記号的な顔に長い耳を生やした、情報量の少ないウサギのぬいぐるみよりも、ずっと大好きだった。
複雑なのに規則正しい模様、何色もの光り輝く鱗、すべて同じ種類の生き物と括っていいのか戸惑うような、さまざまな形。

私は幼稚園が嫌いだった。
やることがあらかじめ決まっているのも嫌だし、その中に楽しいものはあまりない。同じ部屋に人がたくさん集まっているのも嫌だ。先生はまだいいが、同じくらいの背丈の人たちはとにかくやかましくて、気分が悪くなる。


ウサギはかわいい、幼稚園は楽しい、おともだちが大好き、そう「ストレートに」思えないことが寂しかった。母が困った顔をするのもいやだった。

そのうちに、私は5歳の女の子で、こういうものを好きなのが5歳の女の子なんだ、と学習して、人形を撫でてみたり、友達と遊んでみたりした。母は嬉しそうだった。
5歳の私には、そうするしかなかった。


品田遊は正しい。私も正しくありたい。
他人の判断を自分が勝手に見積もることはあまりに暴力的だ。

でもたぶんおそらく、その暴力をエネルギーにして、社会は歯車を回している。自分と違う人間が目の前にいたら、相手の判断を予測しながら行動する。予測が違っていたら怒りを感じるし、合っていたら嬉しい。
都度予測するのが面倒だったら、先に決めてしまえばいい。
男の子にはブルーと車、女の子にはピンクとお姫様。


他人には自分が予測しえない判断、考えがある、あってもよい、あって当たり前ということを、人間が道徳や倫理なくして直感的に分かるようになるには、どれくらいの年月が掛かるのだろうか。10年後か、100年後か、5万年後か、それともその前に全員死んでしまうのか。

少しずつ、世界の景色は変わっているような気がする。
だって、「男の子にはブルーと車、女の子にはピンクとお姫様」だなんて、今はもうノスタルジックな言葉じゃないですか?


それでも今のところは、誰もが社会の歯車を大なり小なり回しながら生きるしかない。そうするしかない。
人間ってそうするしかないんだなあ…と、切なさと愛おしさを同時に感じる日もあれば、それが許せなくて一日中布団から出られない日もある。