seikatsu

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財布に鍵を入れた日のこと

子供の頃、家の鍵を忘れることが何度かあった。


両親ともに働いていたから、鍵を忘れると学校から帰っても家に入れなくて、心細い思いをしながら家の前で2時間くらい母親を待っている時間のことをよく覚えている。
掃除中に気付いてくれた管理人の女性に、マンションの管理室に入れてもらって、お茶をもらった瞬間に泣き出してしまったこともある。
不安な気持ちも大きかったけれど、それ以上に同じ間違いを何度もする自分はダメなやつだという、情けない思いや劣等感の方が強かった。
今思うと、そんなことでダメなやつ認定されるんだったら地球上の人類すべてがダメ人間でしょ~ワハハ、って感じだけども、当時の私は子供特有のまじめさを発揮して、わりと思い詰めていた。


中学校に進学して財布を持ち歩くようになり、さすがに大事なものだからということが腑に落ちていたのか、これは失くさなかった。
ただ、相変わらず鍵のことは忘れてしまう。どれだけ今度は気を付けよう…と決心しても、「鍵」と「失くさない・忘れず持ち歩く」が結びつかなかった。

ある時ふと、財布は忘れないから鍵もここに入れちゃえばいいんじゃないか?と思ってその通りにしてみたら、鍵紛失問題はあっけなく解決した。
今も変わらず、鍵は財布のコインポケットに入れているし、あれ以降一度も失くしたことはない。
最近また、あの時の「なーんだ、こんな仕組みで解決できるんじゃん!」という、清々しい気持ちを感じることが前より増えてきたから、この頃の記憶を振り返ることができた。


WAISを受けたことはないものの、明らかに発達凹凸があることは自覚しているし、主治医の先生にもこれだけ特性あったらしんどかったでしょ~、と太鼓判を押していただいているので、自分は心掛けでは何かを解決出来ない人間だということをよく知っている。嫌なこと、苦手なことを気持ちで克服してこなすということができない。いくらここを我慢したらいいことがあるということを言い聞かせても、今も昔も無理なものは無理だった。

でも、このやり方だったら気持ちよくできるぞとか、いい感じに自分に合った仕組みをいちど作ってしまえば大体うまくいく。
仕組みを考えたら試してみて、アップデートしていく作業も好きなことにも気付いた。
しかし、この自分に合った仕組みというのが、多数派というか、普通こうするよね、の感覚には合わなさ過ぎてずっと苦労してきた。
普通こうするよね、に合わせてめちゃめちゃ頑張って、でも出来ないから自信を無くす、の繰り返しだった。
今は、昔よりだんぜん、自分ってそんなにダメじゃないな、と思う。だって、出来るようになったことがたくさんあるから。
それにしても、あーもう、本当に、普通こうするよね、に合わせるって大変だったんだから!


もし昔の自分と同じ場所に立つことができたなら、この子は好きにさせてあげたらいろんなことが出来るよ、変なことをしていてもそっと見守ってあげて、と言って、周りの大人たちを説得する役目を買って出たい。