seikatsu

楽しい生活をやっています

自閉しながら対話する

コミュニケーション能力があることがまともな人間としての条件、みたいな空気がある一方で、日本はどんどんタコツボ社会になっていって他者とのコミュニケーションが取れない人が増えている、みたいな意見もたくさんあって、どっちなんだい!ヤー!という気持ちになる。
まあ、どっちにしろコミュニケーションが取れなくて、自分や小さいコミュニティの中で閉じこもっているのはダメってことかよ…と思って、まあまあ気が滅入るということがよくある。


でも、タコツボ化していくにはしていくだけの理由があって、少なくともそっちの方が心地よいと感じる人が一定数いるということなんだろうから、それをダメなことと断じなくてもいいんじゃないか。
少なくとも、自分の実感としては、意見が異なる他者を理解しようという気持ちになるには、いったん自閉するというか、安全な場所に引きこもる時間、引きこもれる状況が必要だよな…という感覚がはっきりとある。


というのも、会社を辞めてから、いうて上司や自分以外の社員の人にもああいったコミュニケーションをやる理由があるんだろうな、何かあっち側なりに正当なロジックがあって組織が運営されてるんだろうな…(まあ今のところマジで全然わかんないけど)と思ったからで、会社に所属している間はそういう感じでフラットな方向に捉えることは全くできなかったからだ。
とにかく必死で、あいつらは間違ってる!!!!!!!!!!!!!!と毎日思っていた。
毎日自分が異物だと思わされる環境にあって、会社組織のルールに馴染む努力をやってみたけども、どうしても上手くできないし、馴染めないお前はダメだ(ちゃんと売上を作ってるのに!)とジャッジされまくっていたら、なけなしの自尊心を守るために相手側を全力で否定したくて仕方なくなるのも無理なしだろう。


で、帰宅してからプライベートの友人と交流すると、今度はわりと似たようなスタンスで生きている人たちの意見に触れるからマジでわかる~の気持ちになったり、彼・彼女たちも会社の人間無理すぎ、暮らしていけるお金があれば辞めるのに、こんな社会で生きるのはつらい、みたいな超わかる話をしているわけで、なんというか考え方の距離の開きがすごいし、確かにタコツボ化してるな…と思ったりした。


退職して本当によかったと思う理由の一つが、心置きなく自閉できるということだ。とにかく、コミュニケーションを取りたくなかったら取らなくていい毎日が嬉しい。話をする相手を選べることが嬉しくて仕方ない。物心ついてから初めて、これが安全な暮らしってやつか!と思った(3歳になって保育園通いが始まってから、私の人生は緊張と不安の連続だった)。
そして、その安全で嬉しい生活を2ヵ月くらいやってから、会社の人間にも何かあのコミュニケーション様式が好きな理由があって、別に私が関わらずに済む生活をやれるなら、あいつらが間違ってると思わなくてもいいかな…という気持ちになったし、実際別に間違っているわけじゃないんだろうな、会社が回っているという成果はあるわけだし、と思ったんですね。
相変わらずめちゃくちゃ上から目線でものを言ってるのは大目に見てほしい。今までの絶対に許さねえからなという気持ちが成仏するには時間が掛かるし、こっちにもこっちの論理があるし、自分の考えの方が大事だからね。


いったんタコツボ化するのはむしろ良いことだと思う。安全な場所は常にあった方がいい。
こと日本においては特に、異なる他者とぶつかって成長していくみたいな、雑な言い方ですいませんけど西欧的な価値観を絶対正義にするのは無理があるんじゃないだろうか。
そういう文化的背景が無いんだから、あるものを上手く使った方が楽しくやれるかもしれない。
同質的なコミュニティのなかでぬくぬく生きていった上で、じゃあ私たちの外側の人たちにはどういう考え方があるんだろう、というような興味が出てくるのを待つ時間も、そんなに悪いものじゃないだろうよ。
コミュニケーションをやっていくのは、たぶんそのあとでも遅くない。


(普段の記事と急に全然違う話になってますが、こういう社会と自分の関係みたいなことを考えるのが大好きなので、今後もたびたび書くと思います。)